オーナー様のご紹介
長友 春美 Harumi Nagatomo
「悠美グループ」の会長である長友会長は、30代の頃の管理栄養士の経験から「健康」に興味を持ち、医療器具の取り扱い業を行なっていました。そんな中、体のあちこちが痛いというお客様と多く関わったことで、もっと多くの方の「健康」を応援したいと思うようになったそうです。
そして、元々お医者さんであった現在の「おびたか鍼灸整骨院」の院長と共に、整骨院をオープンさせることを決意し、2016年8月に岡山県倉敷市にてお店をスタートさせます。
困っている人を治したい、良くしたいという想いだけで、お店まで開いてしまう力強い行動力はパワーに満ち溢れており、大きなエネルギーを感じます。この長友会長の気持ちがスタッフの皆さんやお客様に伝わり、地元の方をはじめ、ヘルニアや坐骨神経痛などで悩んでいる方々からも大変喜ばれています。これからも、みんなから愛される整骨院として多くの方を救ってほしいですね☆
三浦 一展 Kazunobu Miura
現在「三浦建築」の2代目社長として経営している一展社長。昔からお父さまがカンナをかけたり、クギ打ちをしている様子を見て育ってきたため、大工の仕事を見様見真似でお手伝いすることもしばしば。そんな環境だったこともあり、図工や美術の授業で作った作品が賞を取ることも頻繁にあったそうです。そうして、物作りへの情熱と技術をお父さまから学び、他社で修業を重ねたあと、家業を継ぐためお父さまと働くことになるのですが、親子であると同時に一人の職人同士であるため、仕事を通じて様々な衝突もあったそうですが、お互いの技術を認め合っているからこその衝突。今ではそんな経験すらも懐かしいとおっしゃっていたのが印象的でした。
一展社長が長年大事にしてきたことは、「見てくれより、どれだけ長持ちするものが作れるか」。その追求心が質の高い物作りに繋がっているのだと、このインタビューを通じて実感しました。これからも、「こだわり」を曲げずに、一人でも多くの方の「安心の暮らし」を作っていってほしいと思います。
丸山 光夫 Mitsuo Maruyama
元々、丸山社長の奥様のご実家は、東京の板橋で呉服屋さんを営んでいましたが、戦争で東京が焼け野原となり、とても商売ができる環境ではなくなってしまいました。その後、長野県飯田市に疎開し、何か商売を始めたいと思っていたとき、ご近所にお肉屋さんがあったため、終戦4年後の昭和24年に見様見真似で始めたのが、精肉店「肉のまるやま」です。当時は豚や鶏を飼いさばいたり、冷蔵庫がないため氷で冷やしながらお肉を販売したりと、地元に根付くまでには様々なご苦労もあったそうですが、徐々に実践の中からたくさんのノウハウを学び、今のお店の基盤を作ってこられました。昭和30年から現在の店主である「光夫社長」の代となり、商業施設や学校給食などへの卸も精力的に行ない、地元からの信頼を勝ち取ってこられました。休むことなく必死で働く丸山さんの姿と確かな品質に確実にお客様が付き、商業当初から今現在までずっとお付き合いのあるお客様もたくさんいらっしゃるそうです。今まで支えてくれた全てのお客様に感謝を忘れず、これからも安心安全なお肉を多くの方に届けてほしいですね。
徐 勝二 Katsuji Jo
一本足打法で有名な野球界のスター「王貞治さん」と同じ浙江省(中国)の出身であり、ご本人とは仲も良かった「杭州飯店初代店主」から、お店を任された息子さんの「徐 勝二さん」ですが、最初はお店を継ぐ気はなく、大学は歯学部に入り、歯医者になることも考えていたそうです。しかし、自分には向いていないことを悟り、大学を辞め、お父さまが守ってきた大切なお店を継ぐことを決められました。大学時代に学んだ化学(ばけがく)を麺や皮の製造開発に活かし、お父さまが作りあげてきたメニューをさらにパワーアップさせ、お客様を増やしています。
2017年には息子さんにお店を任せ、更なるお店の拡大を目指しています。これからも、初代から引き継がれた秘伝の味を後世に残し、杭州飯店の味をまだ知らない人たちに食べてほしいですね。
内藤 朝 Miyo Naito
内藤さんのご出身は秋田県。13人もの大家族(6人兄弟)の中で、ご両親が育てた農作物を食べて育ってきたそうです。そのため、幼少時代から畑仕事を手伝い、農作物を育てることに携わってこられました。集団就職のため、昭和31年に静岡県に移動し、忙しい生活がスタート。慣れない土地での忙しい日々に何度も挫折しそうになったときもありましたが、昔から好きだったお花を育てているときだけは心が落ち着き、癒されたそうです。当時は、農家で苦労をしてきた両親をみてきているため、農家を仕事にしようとは思ってはいなかったみたいですが、育てていたお花が成長していく様子を見て、何かを育てる喜びとやりがいを感じ、平成2年に海老塚農園をスタートさせます。
現在は、農家の仕事を何十年も行なっていた長野県出身の方と二人で育てており、お客様からの「美味しい」のために日々頑張っていらっしゃいます。これからも美味しい野菜を育てていってほしいですね。
関口 明美 Akemi Sekiguchi
関口オーナーのご実家は、長年新潟で車屋さんを営んでいましたが、床屋さんにもいけなかったほど貧乏な幼少時代だったため、逆に理容師に憧れを持たれていました。業種は全く違いますが、関口オーナーの夢をお父様はしっかりと理解し、美容専門学校に入学させてくれたそうです。学校卒業後は10年間、色々な店で修業を重ね、多くのお客様の接客を通じて、実践経験を積まれました。知識と技術に自信が持てるようになった28歳のとき、ある方との出会いから良い物件を紹介され、満を持して独立を決意されます。自分が思ったことを自由に挑戦できる経営者という立場で、時代のニーズを先読みし、美容室と理容室を一つのお店でやれないかと動き出したそうです。
みんなが楽しめる空間作りにこだわることでお客様満足度を上げていこうという熱い想いで、従業員の方と力を合わせて日々頑張っていらっしゃいます。
松岡 孝有 Takanao Matsuoka
松岡社長は、この会社を始める前、大手企業から中小企業まで幅広く勤め、営業経験や技術経験を積み上げてこられました。様々な会社を見る度に、自分で会社を持ち、独立したいという希望が大きくなり、平成元年に「有限会社 善基商事」を立ち上げました。
創立当初は実績がない分、営業経験を活かし、学校や役場に足を運び、会社を売り込み、少しずつ取引先を増やしていかれたことで、地域の信用を勝ち取ることに成功。今や、多くのお客様に必要とされる会社に成長されました。
現在は、奥様と息子さん、そしてそのお嫁さんと従業員の方と共に、社長が積み重ねてきたこの会社、支えてくれている大切なお客様を守っています。これからも、社員みんなで仲良く、強力しながら、更に大きな業績を目指し、新しいアイデアと熱い情熱を持って、多くのお客様のために頑張っていきたいそうです。
伊藤 寿彦 Toshihiko Ito
現在2代目としてお店をまとめている伊藤オーナー。幼少期からお父様の背中を見て育ったことで、料理の世界に興味を持ち、高校卒業後に調理師免許を取得され、20歳でお店を手伝い始めました。お父様の指導方法は、「とにかく見て覚えろ」。そのため、最初の15年は中華そばの作り方さえ教えてくれなかったとのこと。手取足取り教わるわけではない分、大変だったそうですが、その分自分で考える癖が付き、どんなことにも対応できる応用力も身に付いたそうです。経験を重ね、接客・料理技術共に向上してきた平成17年に、新京亭の2代目社長としてお父様から代を変わられました。現在は、息子さんもお店に入り色々なことを学ばれている最中なので、これからの新京亭の発展も楽しみです。これからも、長年続く伝統とノウハウを守りながら、多くのお客様に美味しい料理を提供し続けてほしいと思います。
田中 伸人 Nobuto Tanaka
老舗塗装会社「田中塗装」を支えるのは、3代目社長「田中伸人社長」。幼い頃から職人として汗を流すお父様の背中を見て、いつしか塗装業に興味を持ち始め、工業学校で建築や設計の勉強を始められました。その後、塗装技術を学ぶため、他社で朝も夜も働き、とにかく実践で経験を積むことだけを意識されたそうです。どれだけ働いても思うように給料が上がらず厳しい修行時代だったそうですが、今の自分があるのもそのときの経験があったからだと当時を思い出しながら話してくださったことが印象的でした。そうした厳しい修行を経て、26歳のときに田中塗装に入社し、36歳の若さで代を継がれ、現在に至るのですが、忘れてはいけないのが奥様の存在。社長を支えるため、土木施工管理技士や薬剤師、福祉関係の資格までお取りになり、献身的にサポートされています。この奥様の支えが、社長にとっても、会社にとっても大きいのだと思います。これからもご夫婦、そして社員の方皆さんで力を合わせ、多くの建物に携わっていただきたいですね。大野 公憲 Michinori Ōno
大野さんの高校は芸能科目がある珍しい学校で、そこで学んだ美術や音楽の授業をきっかけに、音楽・楽器が好きになったそうです。しかし、学校卒業直後はすぐに音楽関係の道には進まず、5年間住み込みで居酒屋で働き、その後、さらに5年間大阪でブティック店の経理の仕事をされていました。そして、ご結婚後、奥様の出身地であった岐阜県に移住し、人生で初めて音楽関係の会社「ヤマハ」に入り、27年間もの間、特約店として多くの人にピアノを販売することとなります。音楽と人、ピアノ、そして自分と向き合ってきた27年もの時間の中で、人と関わることの楽しさを改めて実感し、2006年に職場の仲間から紹介された場所で「ピアノプラザオーノ」を立ち上げます。ヤマハ時代に培ったピアノの知識やコミュニケーション能力をフルに使い、来店される方はもちろん、電話問い合わせのお客様に対しても、音楽の魅力を伝えるために誠心誠意対応し、一歩ずつお客様と地域からの信頼を勝ち取ってこられました。現在も、そしてこれからも、さらに多くの方に愛される楽器店へと成長していくことでしょう。