オーナー様のご紹介
山口 隆子 Takako Yamaguchi
(※女将さんはお写真の右から二番目)幼少期から実家が旅館を経営していたことで、高校卒業後、東京YMCA国際ホテル専門学校に進み、宿泊業の基礎を学ばれました。卒業後の19歳の時、家業である「滝の湯」に入り、現場の第一線で経験を積み、36歳の頃に女将に就任、2007年には副社長に就任されました。天童温泉の女将さんたちで構成される「お駒会」と山形県の女将さんたちで構成される「やまがた女将会」の初代会長を務められた山形県を代表する女将さんの一人です。長年の滝の湯人生の中で、様々なご苦労もあったそうですが、滝の湯でのひと時を楽しみにして来るお客様のために、今まで全力で歩んでこられたそうです。長年滝の湯が掲げてきた「人と自然に優しい宿」をより強いものにするため、今日も笑顔の接客でお客様をお出迎えされています。これからも、地域に根付いた旅館として、リピーターを増やし続け、更なるお客様の拡大を目指していただきたいですね。
松永 愛自 Aiji Matsunaga
現在の社長である「愛自社長」のおじいさまが大正8年に創業したのが「松永ふとん店」です。そんな代々続く寝装品店に生まれた愛自社長は、物心ついたときからお店を継ぐことに使命感を持ち、お店の手伝いをしながら、寝装品のことを学んでいきました。創業当初は、問屋が作ったものを右から左へ流すだけのお店だったそうですが、時代の流れと共に、販売だけではなく、製造にも携わるようになり、よりお客様に喜んでもらえるよう企業努力に励んでこられました。「経営は販売ノウハウだけではうまくいかない、最も大切なことは細かな接客である」という先代から教えを今でも大切にされ、心のこもった最高の接客で日々真剣にお客様と向き合っていらっしゃいます。これからも、このお店にしかないサービスとおもてなしを大切にし、奥様と従業員の方々、そしてノアンちゃんと共にお店を守っていきたいとお話していただきました。藤江 伸治 Shinji Fujie
元々は今のお店の場所ではなく、一回目は「新町」という町、二回目は「道の駅」と現在の場所での営業になるまで、2度もの移転をしてこられました。このお店はお父様が始められましたが、当時伸治社長は2代目として継ぐ気はなく、ホテルの厨房や車の板金などの仕事をされていたそうです。しかし、21歳の頃、先代から「店手伝うか?」と、お店に入るきっかけとなる言葉をもらった伸治社長は、「もく」での仕事をする中で居酒屋で培った料理の腕を更に磨いていきます。その後、34歳の頃に店長としてお店を任されるのですが、お父様が作り守ってきたお店を守っていくことに対し、最初はプレッシャーや戸惑いもあったそうです。しかし、そのプレッシャーをはねのけ、現在はご両親と奥様と共にお店を更に発展させていくため、日々料理と向き合っていらっしゃいます。井島 豊治 Toyoji Ijima
学生時代にお父様が始めたユタカ工業を現在2代目社長として運営しています。幼少期からこの会社を継ぐつもりで、工業高校に入り、機械のことや金型のことなど金属に関するありとあらゆることを勉強されました。高校卒業後から今の会社に入るまでの2年間は、他社で溶接の技術を学び、今の仕事に役立てられるよう必死で経験を重ねました。社長就任は40歳の頃。それまでの間、必死になって学んできた技術を、お父様が作り、職人さんが守ってきた会社に役立てられることにやりがいを感じたそうです。現在は、3人の娘さんも職人さんとして日々加工技術を磨いているので、豊治社長も安心して仕事ができているそうです。ベテランの職人さんとご家族の協力があるからこそ、良いチームワークが生まれ、どの企業にも負けない技術とノウハウが生まれるのだと思いました。絹仍 Kinuyo
幼少時代から絵を描いたり、工作をすることが好きだった絹仍(きぬよ)先生。特に図工の授業が好きで、物づくりを始めると時間を忘れて没頭してしまうほど熱中する性格だそうです。しかし、当初は物づくりの仕事をしようとは思ってもいなかったため、学校卒業後はご実家で営んでいた建築会社で事務員として働き始めました。そんなとき、日頃からお世話になっている先生から「サンドアート」をやってみないかとお声がかかり、技術を学ぶためにお住まいの岐阜県から福岡県まで通い始める日々が始まりました。当時は将来これが仕事になるとは考えていなかったそうですが、深く学ぶにつれ色使いの奥深さや美しさに魅力を感じ、どんどんのめり込み、いつしか生活の一部になっていました。経営者になることで、最初は不安を感じていた絹仍先生ですが、好きなことを仕事にでき、お客様と直接接客ができることにやりがいを感じ、今は楽しみながらできているそうです。これからも、もっと多くの人にサンドアートの魅力を伝えられるよう、最高のおもてなしを目指していきたいと語っていただきました。おおしま ゆかこ Ooshima Yukako
幼い頃から声を出すことが好きだったおおしまさん。将来の夢について、保育園の卒園アルバムには「歌手」、小学校の卒業アルバムには「女優」と書いていたそうです。中学1年生の時に、アナウンサーを志します。高校に入ると、放送部に所属。アナウンスと朗読のトレーニングを積み、NHKの全国放送コンテストに2年連続で出場しました。大学在学中には、アナウンスサークルと各種アナウンススクールで学ぶとともに、数々のアナウンスの仕事を経験します。卒業後はアナウンスとは関係のない企業に就職したものの、やはり仕事として、自分の声を活かしたいと、25歳から歌唱&朗読の公演活動と「読む」「話す」「歌う」レッスンを開始し、現在に至ります。アナウンス・朗読・歌唱を通じて、自身が積み重ねてきたノウハウを活かし、レッスンを行っています。新里 俊子 Toshiko Sinzato
渡辺助産院は、「新里先生」のお母さまが昭和32年に作り、気軽に来れる助産院として長年地元に寄り添ってきた助産院です。元々新里先生は、いつ何があるか分からない助産師の仕事を毎日忙しそうにやっているお母さまの姿を幼少期から見ていたため、最初は助産師を目指すつもりはなかったそうです。しかし、高校生の時に真剣に進路を考えたときに自然と頭に浮かんだ仕事がこの助産師の仕事だったそうです。それは、表面的な忙しさよりも、お母さんと赤ちゃんの命を守れるという部分に大きな「やりがい」を感じたからだといいます。生命の誕生をサポートし続けてきたお母さまの姿を見ていた当時高校生だった新里先生は、何か「使命感」のようなものを感じたのかもしれませんね。これからも安産にこだわり、子育てがスムーズに行なえるお母さんたちの環境を作っていきたいと語っていただきました。
木下 直人 Naoto Kinoshita
このお店の2代目社長である「直人さん(お父さま)」は、元々音楽にご興味があり、音楽に携わる仕事に付きたいと夢見ていたそうですが、大学3年の時、お父さまが作ったこのクリーニング店を継ぐことを決め、20歳でこのお店に入りました。何をやるにも徹底的に追求する性格だった直人社長は、仕事のことでお父様と何度も衝突したこともあったそうですが、今までと同じことをやり続けるのではなく、新しいことにチャレンジすることがこの店の未来に繋がるということを意識されていたからこそ。2004年には新しいクリーニング技術を学ぶため、何度も九州に足を運び、水洗いとドライクニーニングを融合させた独自の技術を確立させることに成功。現在はこの技術で新しいお客様を獲得し、お客様満足度を高め、これからの時代に向けて、ご家族皆さんで力を合わせ頑張ってみえます。果たして次はどんな新しいアイデアで私たちを驚かせてくれるのでしょうか。成岡 進 Susumu Naruoka
現在、昭和7年から続く「成岡ふとん店」の3代目社長として、お店と商品、お客様を守り続けている「成岡進社長」。元々、商売は苦手だったそうですが、お父様が体調を崩されたことをきっかけに、経営・商売を円滑に行なうため、簿記を学び始めました。勉強を始めると簿記(商売)の奥の深さにのめり込んでいき、その経験を経営に活かしています。
経営側の立場だけではなく、店頭で直接お客様と接客できる今の仕事にやりがいと魅力を感じ、販売だけを目的とせず、お客様との会話を大切にされています。長年培ってきた製造技術やノウハウ、そしてこの接客力が多くのリピーターを生み、お客様のより良い睡眠をサポートしています。
これからも、心のある温かい接客でお店を守り続けてほしいですね。
櫻井 裕樹 Hiroki Sakurai
お父さまが車屋さんを営んでいたこともあり、車の整備学校に入り、整備技術や知識を学んだ櫻井社長。学校卒業後には、日産の整備士として実践を積み、24歳でお父さまの会社に入り、経営の勉強に力を入れてこられました。
経営学を学ぶ中で、多くの経営者との繋がりがあり、社員教育の在り方やお客様サービスの大切さ、世の中の動きも知ることができたそうです。入社当初はお父さまの会社を継ぐことを考えたこともあったそうですが、今まで経験し学んだことを活かしたいと、平成29年11月に独立を決意。お客様により満足してもらえる仕組み作りやサービス内容の充実を目指し、「同じ目的を持ったひとが集まる」という意味を込めて、店名を「ユナイテッドカーズ」に。
これからも、多くのお客様と社員の皆さんの人生を背負う経営者として、3人のお子さまを持つパパとして、もっともっとお店を大きくしていきたいと語っていただきました。