オーナー様のご紹介
工藤 敬子 Keiko Kudo
元帝国ホテルのパティシエだったご主人と共に1988年8月28日にこの「ラウンドテーブル」をオープンされました。しかし、意外にも最初はカレー屋さんとしてオープンされており、メニューも店内のレイアウトも今とは全然違っていたそうです。マドレーヌも少ししか置いておらず、決してメインの商品ではありませんでしたが、本当に売りたいものを全面に出そうと思い、マドレーヌ中心にお店を変化させていきました。今では「ラウンドテーブル」といえば「マドレーヌ」というくらいこのお店のマドレーヌは有名となり、テレビや雑誌などで数多く取り上げられるようになりました。オープン当初から見れば、メニューもお店の雰囲気も変わりましたが、お客様を笑顔にしたいという気持ちは変わることなく、日々気持ちを込めてお菓子を作っていらっしゃいます。これからも、リピーターを増やし続け、ますます賑わうお店になっていくでしょう。
花井 一匡 Kazumasa Hanai
子どもの頃から料理が好きで、試行錯誤しながら色々な料理を作っていたそうですが、当時は将来的に飲食業を仕事としてやっていくつもりなかったため、学校卒業後は6年間サラリーマンとして会社勤めをされていたそうです。しかし、充実感ややりがいを感じず物足りなさを感じ、24歳の頃に退職。本当に自分がやりたいことを自問自答したときに出てきた答えが子どもの頃から好きだった飲食業だったそうです。最初は、新潟県の飲食店で勤めたこともあったそうですが、自分の力を試したい、チャレンジしてみたいという気持ちを押さえられず、生まれ育った藤枝市(静岡県)で独立を決意。当然、不安な気持ちもあったそうですが、奥様の大きな支えもあったことで決心がつき、2016年8月に「麺屋 花枇」をオープンさせました。現在も地元を活性化させたいという熱い気持ちで奥様と二人三脚で日々頑張って営業されています。
平野 文子 Fumiko Hirano
※料理長のプロフィール料理に関わり40年以上の大ベテラン。京懐石の料理長としても長年腕をふるい、現在は岩手県北上市の「北の居酒屋」の料理長としてご活躍中です。
30名以上のご予約でお酒を少しサービスしたり、お客様の好みに合わせてコース料理の内容を変更したりと、常にお客様目線の仕事を心がけ、楽しみながらお料理をされているそうです。長いキャリアをお持ちにも関わらず、腰が低く、常に謙虚な料理長は、食材への感謝も忘れません。
通常であれば捨ててしまう卵のカラや、玉ねぎの皮まで料理に活かしたり、魚の骨も加工してつまようじにしてしまうなど、できる限り食材を無駄にしないように心がけていらっしゃいます。食材、お客様、料理ができる環境、これら全てに感謝しているからこそ、今のように多くのお客様から指示されているのですね。
長谷川 誠一 Seiichi Hasegawa
大正13年から代々続く「織辰呉服店」。物心ついた頃からご自宅が呉服店を営んでいた誠一社長は、小学校の卒業アルバムに「父の仕事を継ぐ」という夢を既に書いていたそうです。大学卒業後の22歳から5年間、別の呉服小売店で営業を経験し、お客様の生の声や市場同行を学びましたが、あくまで”雇われの身”という感覚がぬぐえず、おじい様から続くここ「織辰呉服店」で3代目として全力を尽くすと改めて決意されました。
現在も、「着物を好きになってほしい」「日本の伝統を守っていきたい」という初心を忘れず、日々お客様と向き合っていらっしゃいます。これからも、着物を通して多くの人に笑顔と幸せを与えていきたいとおっしゃられていたのが印象的でした。
吉村 サツキ Satsuki Yoshimura
19歳のときに自動車会社に就職し、23歳でご結婚。昭和62年に不動産業を始め、ガソリンスタンドやビル、貸家、マンション、アパートなどの物件で土地活用をされてきました。その土地とその物件を使う方の気持ちになり、きめ細かな気配り目配りを欠かさず、管理者としての責任感を強く持たれています。また、ただ管理をするだけではなく、人と人との関わりを大切にされているため、こまめにアパートにも足を運び、周辺の様子や住んでいる方の様子を確認されています。
最近では、大家さんと入居者さんとの距離が遠く、会ったことも話したこともないといったアパートやマンションも多いそうですが、吉村ハイツはその点安全です。長年人気物件として入居者が絶えない理由は、物件の条件が良いだけではなく、吉村オーナーの人柄の良さも大きく関係していると思います。これからも人と物を大切にし、心ある管理をし続けていきたいそうです。
中山 稔 Minoru Nakayama
元々ギフトの販売業をされていましたが、40代のとき体調を崩され、健康の大切さを実感した中山社長。食に溢れたこの世の中だからこそ、何が安全で何に害があるのかが不透明になっていることに疑問を感じ、安全な食をご提案したいと思うようになりました。さらに、自然循環や地球環境にもご興味を持ち、地球にも人間にも優しい食品を目指していきたいと心に決めたそうです。この想いが頂点に達し、2004年に「e-情報サービス」を設立。会社設立後も現状に満足することなく、「発泡ポリスチレン」で作られた「ドームハウス」を使った宿泊施設の事業もスタートさせ、新たなチャレンジも進めています。元気で行動力のある中山社長の今後のご活躍にも目が離せません!
山内 美和 Miwa Yamauchi
このお仕事をする前は、金融関係の会社で会計事務をしていましたが、過労やストレスが原因で2006年に脳梗塞になり、薬付けの生活が始まりました。元々、体も強い方ではなく、便秘ぎみだった山内オーナーは、薬を飲まなくてもいい生活を目指し、リンパについて勉強し始めました。その後、リンパ整体で働き始め、実技を学んでいく中で、リンパ節を開くことが腸の活性化に繋がることに気づき、腸の力に興味が出てきたそうです。腸のことを知れば知るほど腸の大切さが分かり、腸が体のエンジン部分だと気づいたとき、今までのリンパマッサージの経験と腸の知識を使って、人のために何かできないかと思うようになりました。そんな想いから平成21年に「腸活セラピスト」として、腸活マッサージサロン「ゆるりのもり」をオープンし、現在は社団法人を立ち上げることを目標として日々邁進していらっしゃいます。
河愛 天寿 Tenju Kawai
元々、長年農家をしており、トマトやイチゴなどを栽培していましたが、2010年のある風水鑑定士さんとの出会いが可愛さんの人生を大きく変えました。というのも、その風水鑑定士さんに家の間取りを見てもらったとき、驚くほどに色々なことが当たっていたそうです。こうして風水の力を目の当たりにした可愛さんは、そこから風水に興味を持ち、一から学び始めたそうです。勉強をすればするほど、風水の奥の深さにのめり込んでいき、2014年には風水準鑑定士、翌年の2015年には本鑑定士の資格も取得されました。最初は、これを仕事にしようとはあまり思っておらず、「周りの方々に喜んでもらえればいいかな~」くらいの感覚だったそうですが、だんだんともっと多くの方に風水で幸せになってほしいと思うようになり、2016年8月に風水鑑定「天寿の部屋」をオープン。風水の力だけではなく、可愛さんの優しく人を安心させる素敵な笑顔も多くの方を引き付ける要因になっていると私は思います。皆さんも是非一度、可愛先生にお会いしてみてください♬
杉山 登忠之 Toshiyuki Sugiyama
元々、物を作ることが好きで美術や図工の授業になると熱中して時間を忘れるほど。それもただ物を作るだけではなく、魅力あるデザインや機能性、使いやすさを追求していくほどのこだわりを持っていらっしゃいました。その当時から何事にも妥協せず、完璧な物作りを目指ししており、いつしか日本だけはでなく、世界にも発信できるような事をやってみたいと思うようになっていったそうです。高校卒業後、東京のインテリア・建築の専門学校で基本を学び、静岡県の設計・施工会社にて7年間勤務されました。しかし、実務が少なく、指示された事だけをやる仕事内容にいきどおりを感じ、昭和61年12月に「杉山デザイン室一級建築士事務所」を立ち上げ独立し、現在は奥様と息子さんと力を合わせて頑張っていらっしゃいます。これからも、お客様を大切にし、不可能を可能にできるよう企業努力を惜しまず努力していきたいと語っていただきました。
塚原 哲平 Teppei Tsukahara
ご両親が詩吟の師範代ということもあり、子どもの頃から歌が好きで地元の祭りがあるとステージで歌っていたそうです。詩吟の練習で、「こぶし」や「ビブラート」を学んでいく中で、ますます歌に熱中していき、中学・高校とロックバントを結成、大学時代にはヒップホップにも目覚め、あらゆるジャンルの歌に興味を持たれていきます。様々なジャンルを知った上で、「演歌」の魅力を再確認し、演歌の道でプロを目指すことを決意。大学卒業後には色々なオーディション・コンテストに応募する日々を送りながら、東京のレコード会社に自分の歌が入ったカセットテープと履歴書を送り続けたそうです。そんな努力もあり、1999年にはNHKのど自慢熊本大会でチャンピオンになり、たまたまいらっしゃった宮路オサムさんの知人の方から宮路さんを紹介していただいたんだとか。その後、東京に上京し2年間アルバイトをしながらボイストレーニングで更に実力を磨き、6年間の付き人時代を経て、メジャーデビューに至りました。この下積み時代があるからこそ、味のある心に染みる歌が歌えるのでしょう。